人間中心設計に基づく経済モデリングの変革:より良い未来経済システム設計に向けたアプローチ
はじめに
未来の経済システムを構想し設計する上で、その挙動を理解し予測するためのモデリングは不可欠なツールです。伝統的な経済モデリングは、多くの場合、合理的な経済主体や市場均衡といった概念に基づいて構築されてきました。しかし、現実世界の経済システムは、多様な主体の複雑な相互作用、限定合理性、感情、社会規範、技術進化といった非線形かつ予測困難な要素に深く影響を受けています。人間中心設計の視点から経済システムを捉え直すとき、これらの人間的な側面をいかにモデルに組み込むかが重要な課題として浮上します。
本稿では、人間中心設計の原理を経済モデリングに応用することの意義と可能性について考察します。従来のモデリングアプローチの限界を踏まえつつ、人間中心的な視点を取り入れた新しいモデリング手法が、よりレジリエントで、公平かつ、人々のウェルビーイングに貢献する未来経済システムを設計するためにどのように貢献しうるのかを探求します。
従来の経済モデリングにおける人間観と限界
新古典派経済学に代表される従来の経済モデルは、しばしば「ホモ・エコノミクス(合理的経済人)」と呼ばれる、自己の効用最大化を追求する完全に合理的な意思決定主体を想定します。このようなモデルは、特定の条件下での市場メカニズムの効率性などを分析する上で強力な枠組みを提供してきましたが、現実の人間行動の多様性や非合理性を十分に捉えることは困難です。
また、マクロ経済モデルにおいても、個々の主体の異質性や相互作用が単純化される傾向があります。例えば、代表的エージェントモデルでは、経済全体を一種類の代表的な家計や企業に集約して分析することが一般的です。これによりモデルの扱いやすさは増しますが、格差の拡大、バブルの発生、金融危機の伝播といった、主体の異質性やネットワーク構造から生じる創発的な現象を詳細に分析することには限界があります。
人間中心設計は、システムの設計において利用者のニーズ、能力、限界を深く理解し、それらを設計プロセスの中核に置くことを重視します。この視点を経済モデリングに適用するならば、単一の合理的主体ではなく、多様な認知バイアス、学習能力、社会的影響力を持つ異質な主体が、不完全な情報や複雑な環境下で相互作用する様子をモデル化することが求められます。従来のモデリングアプローチは、この人間的な複雑さや多様性を捉えるという点で、人間中心設計の理念と乖離している側面があります。
人間中心設計に基づく新しい経済モデリングアプローチ
人間中心設計の視点を取り入れた経済モデリングは、従来の課題を克服し、より現実に即した、かつ設計意図に応じたシステムの挙動を分析するための可能性を拓きます。具体的なアプローチとしては、以下のような方向性が考えられます。
1. エージェントベースモデリング(ABM)の活用
エージェントベースモデリングは、個々の異質な主体(エージェント)を定義し、それらの主体が特定のルールに基づき環境や他の主体と相互作用する過程をシミュレーションする手法です。各エージェントは限定合理性、学習能力、感情、ネットワーク構造などを有するように設計することが可能です。これにより、マクロレベルでの経済現象が、ミクロレベルの主体の多様な行動と相互作用からどのように創発されるのかを分析できます。
人間中心設計の観点からは、ABMを用いることで、特定の政策変更やシステム設計が、異なる属性や行動様式を持つ人々にどのような影響を与えるかを、より粒度高く分析することが可能になります。例えば、ベーシックインカム導入が多様な労働意欲や消費行動に与える影響、あるいは新しい金融システムの設計が異なるリスク許容度を持つ人々のポートフォリオ選択にどう影響するかなどをシミュレーションできます。これは、平均的な影響だけでなく、システムが包摂的であるか、特定の脆弱なグループに不利益をもたらさないかなどを評価する上で有効です。
2. 行動経済学・認知科学の知見の統合
行動経済学や認知科学は、現実の人間が必ずしも完全には合理的でないこと、ヒューリスティクスやバイアスに影響されること、社会的・感情的な要因が意思決定に大きく関わることなどを実証的に示しています。これらの知見を経済モデルにおける主体の意思決定ルールに組み込むことで、より現実的なシミュレーションが可能になります。
例えば、プロスペクト理論に基づく損失回避傾向、アンカリング効果、サンクコストの誤謬、あるいは社会的比較や公平性への配慮といった行動特性をエージェントのルールに組み込むことで、市場の非効率性や集団行動の予測精度を高めることができます。人間中心設計のプロセスで得られるユーザーの行動データや定性的なインサイトは、こうした行動特性をモデル化する際の重要な示唆となります。
3. 定性的な人間中心設計手法との連携
人間中心設計のプロセスでは、インタビュー、エスノグラフィ、共創ワークショップなどを通じて、人々の深いニーズ、価値観、行動の文脈を理解します。これらの定性的な知見は、モデルの初期仮定、エージェントの多様性の設定、相互作用ルールの設計において重要な出発点となります。
モデリング結果を、人間中心設計の観点から評価することも重要です。例えば、シミュレーションによって示されたシステムの挙動が、設計段階で想定した人々のウェルビービングや社会全体の目標と整合しているか、予期せぬ(そして望ましくない)副作用が生じていないかなどを検討します。必要であれば、モデルを修正したり、システム設計自体を再考したりするイテレーションを通じて、より人間中心的な経済システム像を洗練させていくことが可能になります。
より良い未来経済システム設計への示唆
人間中心設計に基づく経済モデリングは、単なる予測ツールを超え、未来経済システムを「設計」するための強力な補助線となり得ます。
第一に、多様な政策や設計変更が、経済システム全体にどのような影響を与え、それが人々の多様なグループにどのように分配されるのかを、より詳細かつ多角的に分析できます。これにより、効率性だけでなく、公平性、包摂性、レジリエンスといった人間中心設計の目標を追求するためのエビデンスに基づいた議論が可能になります。
第二に、単一の最適解を求めるのではなく、複数のシナリオや設計案を比較検討し、それぞれの長所と短所を人間中心の視点から評価することができます。これは、不確実性の高い未来において、強靭で適応力の高いシステムを設計する上で不可欠です。
第三に、モデルの構築プロセス自体が、経済システムを構成する人間主体やその相互作用に対する深い洞察を促します。異なる分野の研究者や実務家が協力してモデルを構築・検証するプロセスは、システム全体の理解を深め、共通認識を形成するための知的基盤となり得ます。
結論と今後の展望
従来の経済モデリングは、その分析能力において限界を持つ側面があり、特に人間的な複雑性や多様性を十分に捉えるという点において、人間中心設計の理念との間に乖離が見られました。本稿で論じたような、エージェントベースモデリングの活用、行動経済学・認知科学の知見の統合、そして定性的な人間中心設計手法との連携といったアプローチは、この乖離を埋め、より人間的な要素を考慮した経済モデリングの可能性を示しています。
このような人間中心設計に基づく経済モデリングは、単に経済成長といった指標だけでなく、ウェルビーイング、公平性、レジリエンスといった多様な目標を統合した、より良い未来経済システムの設計に向けた強力なツールとなり得ます。
しかし、この分野にはまだ多くの課題が残されています。例えば、複雑な人間行動をモデル化する上でのデータの取得と検証、モデルの透明性と解釈可能性の確保、そしてモデリング結果を政策決定やシステム設計に効果的に統合するための方法論の確立などが挙げられます。
これらの課題を克服するためには、経済学、社会システム論、計算科学、認知科学、デザイン学といった多様な分野の研究者が連携し、学際的なアプローチを深化させていくことが不可欠です。人間中心設計に基づく経済モデリングの研究と実践は、未来の経済システムのあり方を、より人間的な視点から構想し、実現していくための重要な一歩となるでしょう。