未来の経済と幸福度

人間中心設計に基づくケア経済の再構築:未来の経済システムにおける不可視な価値の評価

Tags: ケア経済, 人間中心設計, 価値評価, 福祉経済学, 社会システム

導入:未来経済システムにおけるケア経済の重要性

未来の経済システムを構想する上で、人間の幸福度やwell-beingをその中心に据えることは喫緊の課題であり、人間中心設計の理念に他なりません。この視点から経済システムを考察する際に、特に重要な位置を占めるのが「ケア経済」です。ケア経済は、育児、高齢者介護、傷病者看護など、他者への直接的なケア活動や、それらを可能にする家事労働など、人間の生存と再生産に不可欠な活動の総体を含みます。これらの活動は、社会全体のwell-beingに貢献する基盤であるにも関わらず、伝統的な経済指標、とりわけGDPにおいてはその価値が十分に認識されず、不可視化されがちです。

現在の経済システムは、往々にして市場交換可能な価値を重視し、非市場的な活動、特に無償のケア労働を経済的貢献として適切に評価できていないという構造的な課題を抱えています。この課題は、ケア提供者の負担、ジェンダー不平等、社会的な不均衡を招き、結果として社会全体のwell-beingを損なう要因となり得ます。人間中心設計の視点を取り入れることは、こうしたケア経済の構造的な問題を克服し、より人間的な価値を重視する未来の経済システムを構築するための有力なアプローチを提供します。本稿では、人間中心設計の観点からケア経済の現状の課題を分析し、その再構築に向けた理論的・実践的な考察を進めます。

ケア経済の概念と現状の経済システムにおける位置づけ

ケア経済は、広義には有償・無償を問わず、他者の物理的、精神的、感情的なニーズに応える活動全般を指します。これには、家庭内で行われる無償の家事・育児・介護労働から、専門職による医療・福祉サービスまでが含まれます。歴史的に見れば、ケア労働の多くは家庭内で無償で行われ、主に女性によって担われてきました。近代経済学の発展過程においても、市場を介さないこれらの活動は、経済分析の主流から外れる傾向にありました。

GDPなどの国民経済計算では、原則として市場取引された財・サービスの価値が計上されます。このため、家庭内で無償で行われる膨大な量のケア労働は、経済活動として捉えられず、統計的に不可視化されています。これは、経済学における「生産」の定義や「価値」の捉え方に関する根深い問題を示唆しています。多くの研究によれば、もし無償のケア労働を市場価格で評価した場合、その価値はGDPの相当部分(国によっては10%から50%以上)に匹敵すると推計されています。

この不可視性は、政策決定においてもケア経済の重要性が十分に反映されない原因の一つとなります。例えば、社会保障制度や労働市場政策、都市計画などにおいて、ケアのニーズやケア提供者の状況が適切に考慮されない結果、社会的なコストが増大したり、特定の集団に過大な負担がかかったりする事態が生じ得ます。特に、人口高齢化が進む多くの国々において、ケア経済の持続可能性と質の確保は、喫緊の社会経済的課題となっています。

人間中心設計の視点から見たケア経済の課題

人間中心設計(Human-Centered Design, HCD)は、システムやサービス、プロダクトを開発する際に、ユーザー(この文脈ではケア提供者とケア受領者)のニーズ、モチベーション、行動様式を深く理解し、彼らの視点から最適な解決策を探求するアプローチです。この視点からケア経済の現状を捉え直すと、以下のような課題が浮き彫りになります。

  1. ケア提供者の負担とwell-beingの軽視: 無償・有償を問わず、ケア労働は時間的、肉体的、精神的に大きな負担を伴う場合があります。しかし、多くの場合、その労働の質や量は適切に評価されず、労働に見合う報酬やサポートが不足しています。これは、ケア提供者自身のwell-beingを損ない、 burnout や離職につながる可能性があります。システム設計がケア提供者の持続可能性を十分に考慮していない非人間中心的な構造と言えます。
  2. ケア受領者の尊厳と自律性の制約: ケア受領者、特に高齢者や障害のある人々は、既存のケアサービスにおいて、個別のニーズや意向が十分に反映されない経験をすることがあります。画一的なサービス提供、意思決定プロセスへの限定的な参加など、彼らの尊厳や自律性が十分に尊重されない設計になっている場合があります。人間中心設計の原則は、ケア受領者が主体的にケアのあり方を選択・決定できるようなシステム構築を求めます。
  3. ケアの「質」の評価の困難さ: ケアの本質は人間的なインタラクションや関係性に根差しています。その「質」は、時間やタスクの完了だけでは測れない、共感、信頼、尊厳といった要素に大きく依存します。しかし、既存の評価システムや報酬体系は、定量化しやすいアウトプットや時間に基づいて設計されることが多く、ケアの人間的な質を捉えられていません。
  4. 技術導入における人間中心性の欠如: 近年、ケア分野におけるテクノロジー(ケアテック)の導入が進んでいます。しかし、技術がケア提供者と受領者の人間的なインタラクションを阻害したり、プライバシーやセキュリティに関する懸念を生じさせたりするリスクも存在します。技術はあくまで人間的なケアを補完・強化するためのツールであり、その導入プロセス自体が人間中心でなければなりません。

人間中心設計に基づくケア経済の再構築の方向性

これらの課題を踏まえ、人間中心設計に基づいてケア経済を再構築するための方向性を考察します。

1. ケアの価値評価の変革

人間中心設計は、まずケアの提供者・受領者にとって何が価値であるかを問い直すことから始まります。経済システムにおいてケアの価値を適切に評価するためには、GDPに代わる、あるいはGDPを補完する指標の導入が不可欠です。サテライト勘定として無償労働を推計するアプローチは国際的にも進められており、その標準化と普及が求められます。さらに、単なる労働時間の評価に留まらず、ケアがもたらす社会的・感情的な価値や、未来世代への貢献といった側面を捉える多角的な評価手法が必要です。例えば、ケアを通じて育まれるレジリエンスや社会関係資本といった質的な価値をどのように経済分析に組み込むか、といった学術的な探求が重要となります。これは、経済学における価値概念そのものを、市場交換可能なモノやサービスから、人間のwell-beingや持続可能な社会の基盤へと拡張する試みと言えます。

2. ケア提供者と受領者の経験に基づく制度設計

人間中心設計の核心は、システム利用者からの深い洞察に基づく設計です。ケア経済においては、ケア提供者(家族介護者、プロフェッショナルなケアワーカー等)とケア受領者の多様な経験やニーズを収集・分析し、それを制度設計にフィードバックするメカニズムの構築が不可欠です。例えば、参加型デザインの手法を用いて、ケアサービスや社会保障制度の設計プロセスに当事者が参画できるようにすることや、ケア労働者の労働条件やスキル開発に関する意思決定に彼らの声が反映される仕組みなどが考えられます。労働経済学の観点からは、ケア労働市場における情報の非対称性、報酬体系の歪み、非正規雇用の問題を人間中心の視点から分析し、改善策を提案することが求められます。

3. テクノロジーとインフラの人間中心な活用

ケア分野におけるテクノロジー活用は、ケア提供者の負担軽減やケア受領者の自律性向上に貢献し得ます。しかし、その設計・導入においては、ユーザーのデジタルリテラシー、プライバシー懸念、技術へのアクセス格差などを十分に考慮する必要があります。単に効率化を追求するのではなく、テクノロジーがケアにおける人間的な繋がりや共感をどのようにサポートできるか、という視点が重要です。また、ケアを支えるコミュニティ基盤や物理的なインフラストラクチャ(アクセシブルな住居、公共交通機関、地域交流拠点など)も、人間中心設計に基づいて再考されるべきです。これらは社会システムとしてのケア経済を支える重要な要素であり、公共経済学や都市経済学の知見との連携が不可欠です。

4. ケアの共同生産と社会全体の関与

ケアは単一の提供者から受領者への一方的なサービスではなく、共同生産的なプロセスであり、社会全体の責任であるという認識を高める必要があります。人間中心設計は、ケアを家族や個人にのみ帰属させるのではなく、コミュニティ、企業、NPO、政府などが連携し、それぞれの役割を果たす協調的なシステムとしての設計を促します。例えば、地域における互助システムの構築支援、企業による従業員のケア責任への配慮(育児・介護休暇の拡充など)、学校教育におけるケアに関するリテラシー教育の導入などが考えられます。これは、ケアを公共財またはコモンズとして捉え直し、その維持・発展に社会全体がコミットするシステムをデザインすることに繋がります。

理論的含意と先行研究との関連

人間中心設計に基づくケア経済の再構築というテーマは、既存の多様な学術分野と深く関連しています。フェミニスト経済学は、無償ケア労働の経済的意義とジェンダー不平等の関連性を長年にわたり論じてきました。人間中心設計の視点は、この議論にケア提供者・受領者の主観的経験やニーズというミクロな視点を加え、より実践的な制度・サービス設計への道筋を示唆します。

ポスト成長経済の議論は、GDP成長に代わる新たな社会目標としてwell-beingや持続可能性を掲げており、ケア経済の適切な評価と発展は、この目標達成に不可欠な要素です。人間中心設計は、well-beingを構成する要素(例えば、人間関係、自律性、自己実現など)をケア経済システム内でどのように最大化できるか、という具体的な問いを立てることを可能にします。

また、公共経済学や社会保障論においては、ケアサービスの提供主体(公的、私的、非営利)や財源確保のメカニズムが論じられます。人間中心設計は、これらの制度設計が利用者中心となっているか、特に社会的弱者や情報弱者のニーズが十分に反映されているか、という観点から批判的な検討を促します。行動経済学の知見は、ケアにおける非金銭的な動機(利他性、義務感、愛情など)や、情報提示の仕方(例:ケア労働の社会的重要性の可視化)が人々の行動や社会規範に与える影響を分析する上で有用です。

社会システム理論の観点からは、ケア経済は単なるサービス産業ではなく、家族、地域コミュニティ、市場、政府機関、NPOなどが複雑に関係しあう多層的なシステムとして捉えられます。人間中心設計は、このシステムの各アクターが、個々のwell-beingとシステム全体の持続可能性の両立を目指すような協調関係をどのように構築できるか、というシステムデザインの課題を提示します。

結論:人間中心設計が拓くケア経済の未来

人間中心設計に基づくケア経済の再構築は、未来の経済システムをより人間的で、包摂的、かつ持続可能なものへと変革するための重要な鍵となります。現在の経済システムが抱えるケアの不可視化と過小評価という構造的課題に対し、人間中心設計は、ケアの提供者と受領者の経験を深く理解し、彼らのwell-beingを最大化するための具体的な制度、サービス、技術の設計原理を提供します。

ケアの価値を多角的に評価し、それを経済指標や政策決定に反映させること。ケア提供者の労働環境と社会的評価を改善すること。ケア受領者の尊厳と自律性を尊重し、意思決定への参画を促すこと。技術やインフラを人間中心的な視点から活用すること。そして、ケアを社会全体の責任とする協調的なシステムを構築すること。これらは全て、人間中心設計の理念に基づいた、ケア経済の再構築に向けた具体的なステップです。

もちろん、この再構築の道には多くの課題が存在します。無償ケア労働の価値をどのように精緻に測定するか、多様なケアニーズにいかに柔軟に対応するか、制度改革の財源をどう確保するか、そしてグローバルなケアチェーンにおける倫理的な問題をどう解決するかなど、克服すべき論点は多岐にわたります。しかし、人間中心設計を羅針盤とすることで、私たちはこれらの課題に対して、単なる経済効率性だけでなく、人間の尊厳とwell-beingを最優先する視点からアプローチすることが可能となります。未来の経済システムは、市場や技術だけでなく、ケアという人間的な基盤の上にこそ構築されるべきであり、その実現に向けて、人間中心設計の探求は不可欠な学術的、実践的課題と言えるでしょう。